ローマ各地に何気なく見られる「公共の芸術品」である噴水。しかし、この噴水の歴史は遠く古代にまで遡ることができるのです。
■ ローマにおける水道の歴史 ■
紀元前312年、財産調査官であったアッピウス・クラウディウス・クラッススによって、ローマ北東12kmより市内まで総延長16.5kmのアッピア水道は敷設されました。
その後、紀元前144年にはローマ東アペニン山脈のアニエーネ川上流より総延長91kmでマルキア水道が敷設され、5世紀には11本の水道があったとされています。
その後ローマ帝国は東西に分裂し、東ローマ帝国が栄え、ローマの人口は減り、北方からゲルマン民族が侵入し、西ローマ帝国の力は弱まったのです。
537年、西ゴート族の王はローマを包囲し、水道を使えなくて攻撃しました。
また、東ローマ帝国のベリサリウス将軍は地下水道を使って敵が市内に侵入してくるのを防ぐため、水道を塞いでしまいました。
このような事から多くの水道が使えなくなっていったのです。
西ローマ帝国滅亡後の中世ローマには、教会の権威のみが残ったのです。
この時、ヴェルジネ水道とアレサンドリーナ水道は少量ながらも水を供給していましたが、すでに古代ほど水の需要は高くはありませんでした。
人口も減り、公共の浴場やナウマキアなどの習慣が、すでに廃れていたからです。
神の御前に出るための清めの泉程度が、例外的に必要だったくらいです。
その後、教会によって泉の再整備や敷設が計画され、それによって古代水道の復旧が必要となり、古い水道の復旧とともに貴族による自宅への水道敷設の要求が出てくることで、ローマは少しずつ水の都としての姿を取り戻していったのです。

